なんでだろうなぁ……と、ふと手が止まる。
「いや、まだ全部読んでないし……」
「このあとに“それは誤解です”って書いてあったら……」
そんな声が、どこからともなく聞こえてくる。
本を読んでいて、「あ、これいいな」「書きたいな」って思ったときに限って、
どこかでブレーキがかかるんです。
私は昔から、「最後まで読んでからじゃないと感想は語っちゃダメ」と思っていた。
いや、思い込んでいた、のほうが正しいかもしれません。
書評にしても、ブログにしても、誰かに向けて書くならなおさら。
「途中の感想なんて、浅い」「誤解があったら恥ずかしい」……
そんなふうに、自分で自分の口を塞いでいた気がします。
でも最近、そんな自分の“思い込み”に風穴を開けてくれる人たちに、よく出会うようになりました。
読みながらメモをとる人。
気になった一文をそのままSNSでつぶやく人。
感情が動いた瞬間に、思いのままブログに書く人。
彼らは、「まだ途中ですけど」と前置きすることもなく、
“今、この瞬間に感じたこと”を、ちゃんと自分の言葉で残している。
それを見て、私はハッとしたんです。
「なんで、自分にはこれができないんだろう?」
「なぜ、“最後まで読んでからじゃないと語っちゃダメ”って思ってしまうんだろう?」
もしかしたらそれは、“間違うこと”が怖かったんじゃないか。
誤読だったらどうしよう。ズレてたらどうしよう。
「浅い読みだな」って思われたら……そんな恐れが、私を止めていたのかもしれません。
でも、ここでちょっと立ち止まって考えてみたいんです。
それって、本当に“間違い”なんでしょうか?
途中で書ける人たちのスタイル
たとえば最近、SNSやブログを見ていると、
本を読みながらリアルタイムで感想を発信している人をよく見かけます。
「1ページ目から、いきなり刺さる言葉」
「たった一文で、思考が動かされた」
そんな声が、読了報告よりも先に飛び込んでくる。
彼らは、“読了後の感想”じゃなく、“読書中の発見”を発信しているんですよね。
それはまるで、「本との対話」をそのまま外に出しているようにも見える。
もちろん、まだ読み終えていない本だから、全体像は見えていない。
この先で考えが変わるかもしれないし、逆のことが書かれているかもしれない。
でも彼らは、そういう「未完成さ」を隠さない。
むしろ、それをそのまま価値として差し出しているように思うんです。
なぜそんなことができるのか?
私は最初、彼らの“スピード感”に驚きました。
でもそれ以上に、「今の自分の気づきを、自分の言葉で語っている」その姿勢に、学ぶものが多いと感じました。
彼らは、“正解”を探しているのではなく、
“自分との関係性”を育てているんだと思う。
「本に何が書いてあるか」よりも、
「それが自分にどう響いたか」を大切にしている。
そして、気づいたことをすぐに書くことで、
その瞬間の感情や発見を“確かな形”にしている。
それってつまり、情報との距離がすごく近いんですよね。
一度、手元に置いてから書くのではなく、
手を伸ばして触れた瞬間に、反応を残す。
言い換えれば、彼らは「情報を読む」というより、「情報と一緒に動いている」。
その在り方に、私はものすごく惹かれました。
そして、あらためて思うのです。
「発信」って、なにも“完成した考え”じゃなくてもいい。
“揺れながら考えている途中”でも、十分に価値があるんだと。
書けなかった自分の体験談
思い出すだけで、ちょっと悔しくなる出来事があるんです。
ある本を読んでいたときのこと。
まだ序盤だったけど、「あ、これ大事な言葉だな」と感じるフレーズに出会った。
何かが自分の中でカチッとはまるような感覚。
「ああ、これについて書きたいな」と、指先まで書く準備ができた気がした。
でも、そのとき私はこう考えてしまったんです。
「いやいや、もう少し読んでからにしよう。全体を読んでからの方が、ちゃんと書けるだろう」って。
それで、そのまま本を読み進めたんですけど……
結局、そのとき感じた“鮮やかな気づき”は、後半に進むうちにすり減っていって、
いざ全部読み終わった頃には、どこに何を感じたのか、もう思い出せなくなっていた。
あとからページをめくり返しても、その言葉の“初速の衝撃”は戻ってこなかった。
読んだ事実だけが残って、あのとき湧き上がった感情はもうつかめなかったんです。
そんなことが、実は何度もありました。
「ちゃんと書きたいから」「もっと理解してから」――
そう思って我慢した結果、なにも残らなかった。
自分で自分の感動を置き去りにしてしまった感覚でした。
それに気づいてからは、なるべく“その場で書く”ように意識しています。
たとえ断片的でも、言葉足らずでも、「感じたことを形に残す」ことのほうが、
あとから振り返ってもずっとリアルなんです。
完璧な文章じゃなくていい。
上手なまとめじゃなくていい。
むしろ、ちょっと乱れたメモのほうが、
「自分の心がどう動いたか」がちゃんと伝わってくる。
それに気づいたとき、
ようやく「途中で発信する」というスタイルが、少しずつ自分の中に馴染んできました。
読書術・自分との関係性
読書って、「全部読まなきゃいけない」と思い込んでいませんか?
私はそうでした。
最初から最後まで、すみずみまで読み切ることが“正しい読書”だと思っていたんです。
でも、世の中にはそれとはまったく違う読書のスタイルがあることを知って、目から鱗が落ちました。
たとえば、ある実業家は「目次と“はじめに”だけ読んで、あとは気になる章だけ読む」と言います。
ある哲学者は「1冊から1行を拾えれば十分」と語っていたし、
ある作家は「本の役割は“自分の言葉を引き出すスイッチ”になること」だと言っていました。
極端な話、「1行読んで、本を閉じる」っていうのも、立派な読書法なんです。
読書は、“答えを探しに行く旅”じゃない。
“自分との対話”を深めるための時間なんだ――
そう思えるようになってから、本との付き合い方がまったく変わりました。
どんなにベストセラーでも、全部読む必要はない。
たとえ途中までしか読まなくても、「今の自分にとって意味のある場所」だけ拾えばいい。
むしろその方が、ずっと深く自分に刻まれることがあるんです。
本と自分の関係って、人と人の関係にちょっと似てる気がします。
相手のことを全部知る必要はなくても、
一言で心がつながる瞬間って、あるじゃないですか。
その一言に出会えたとき、
自分の考えが変わったり、救われたり、背中を押されたりする。
だから私は最近、最初の10ページでピンと来る言葉に出会えたら、もうその時点で“読了”だと思うようにしています。
読み切ることより、気づけること。
正確に理解することより、自分とつながること。
本って、そういうふうに使ってもいいんだなって、今なら思えます。
発信が変える読書の質
「書こう」と思って本を読むと、不思議なことが起きます。
ただ読むだけのときよりも、言葉が深く入ってくる。
「あ、自分ならここを取り上げたいな」とか、
「これは、あの人にも伝えたいな」と思いながら読むと、
自然と視点が“受け取る側”から“伝える側”に切り替わっていくんです。
それは、まるで読書が「一人ごと」から「対話」になるような感覚。
私はこの変化を、ブログを始めてから何度も味わいました。
「これは良い話だった」と思って本を閉じるだけでは、時間とともに忘れてしまう。
でも、そこで感じたことを自分の言葉で綴ろうとすると、
「なんでそう感じたんだろう?」「他の人にどう伝えればいい?」と考えるようになる。
すると、読んだ内容が自分の中に“もう一度インストール”されるような感覚になるんです。
しかも不思議なことに、書いている最中に「あれ、もしかして…」と新たな気づきが生まれることもある。
つまり、“アウトプットそのもの”が、新しいインプットになる。
そしてもう一つ――
書いた記事に誰かが反応してくれると、さらに深い対話が始まります。
「私もその本読みました」
「この部分、自分も同じように感じました」
「逆に私はこう思ったんです」
そんな声が返ってくると、
「一冊の本」と「自分の感情」が、見えない誰かとの接点になっていく。
これってすごいことですよね。
たった一人でページをめくっていた読書が、
気づいたら、誰かと“感情を共有する場”になっている。
その体験を何度も繰り返すうちに、私はこう思うようになりました。
読書の価値は、ページを閉じたあとに始まる。
発信することで、読んだことが“生きた言葉”になる。
だから、完璧に読み終えなくてもいい。
今、この瞬間の気づきを言葉にしてみよう。
それが、読書を深める一番の方法なのかもしれません。
この記事を書いた人|ミライジュウ
メディア関連企業の業務部長。ラジオ演出30年の経験を経て、
「50代からでも“1円を生む力”は育てられる」と信じて発信中。
毎朝4時起きでランニング・筋トレ継続中。
▶︎ 運営者プロフィールはこちら
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