最近、ネット上を騒がせている「佐藤二朗さんと橋本愛さんの報道」を眺めていて、ふと強い違和感を覚えました。
世間がこの件をどう消費しているか。そこには、キャンプファイヤーのように皆で薪をくべ、誰かを貶めることで熱狂を生み出そうとする、ダークな民衆の心理が渦巻いているように見えるのです。
30年間、ラジオディレクターとして情報バラエティ番組の制作に携わってきた私にとって、この状況は非常に複雑な感情を抱かせます。
ラジオというメディアは、常に「大勢が聞いてくれてナンボ」という厳しい現実と隣り合わせにあります。しかし、私たちが大切にしてきたのは、「煽ること」ではなく「意味を届けること」であり、そして何より「現場の空気と安全を仕切ること」でした。
なぜネットは「キャンプファイヤー」になるのか
ネットというプラットフォームは、良くも悪くも「炎」が大きく見えやすい構造をしています。誰かのスキャンダルや対立は、大勢の人々にとって格好の薪になります。
キャンプファイヤーには、見知らぬ人たちが焚き火を囲んで熱狂を共有する側面もありますが、今回の騒動で見えてきたのは、誰かを貶めて楽しむという下劣な側面です。
ラジオには、テレビのワイドショー的な、いわば「生贄を求めるような娯楽」はありませんでした。
パーソナリティが芸能ネタを扱う時でさえ、「なぜ今、これを伝える必要があるのか」「この話を聞くことで、リスナーの生活にどんな意義が生まれるのか」という問いを常に持ち続けていました。
ネットとラジオ。届けられる規模感は似ていても、そこにある「誠実さの濃度」には大きな違いがあると感じています。
制作現場の責任を「個人」に押し付けることの卑劣さ
今回の騒動において、私が最も許しがたいと感じるのは、フジテレビ側の対応です。撮影現場で事が起きたのなら、仕切り切れなかった責任は少なからず組織にあるはずです。
もし「演者同士のトラブルだから関係ない」という姿勢がまかり通るなら、その場に人を集め、コンテンツ制作の場を構築する責任とは、一体何なのでしょうか。
演出や調整の不備を現場の当事者だけの責任に転嫁し、組織として沈黙を守る。これは「自分たちの船の操縦を放棄している」のと同じことです。
演者やスタッフが安心し、最大限のパフォーマンスを発揮できる「安全な場」を担保することこそが、プロデューサーや制作サイドの最大の責務です。
身体接触への配慮という具体的な条件が共有されていなかったこと自体、すでに「場を設計する責任」を放棄したことの現れであり、その結果生じた問題を「当事者間の問題」と切り捨てるのは、あまりに不誠実です。
こうした組織の姿勢がまかり通れば、今後の制作現場には「あえて重要事項を伝えない方が楽」「問題が起きても知らぬ存じぬ」という腐敗した風潮が蔓延します。
これは、クリエイターたちが「自分の身を守りながら」でなければ働けないという、非常に息苦しく、不毛な現場を生むことになります。
「炎」ではなく「灯火」を
私は今、ポッドキャストを通じて自分自身のメディアを育てようとしています。ラジオで30年培ってきた経験は、これからの時代、非常に大きな武器になるはずです。
私がこれから目指したいのは、誰かを貶めるためのキャンプファイヤーではありません。誰かの思考を照らし、明日への一歩を支えるような「小さな灯火」です。
ネット上で消費される「煽り」は、短期的には数字を生むかもしれません。しかし、そこには灰しか残りません。
一方で、制作責任を明確にし、真摯に向き合うラジオ的な姿勢は、たとえ時間はかかっても、リスナーとの間に強固な信頼の土壌を築きます。
最後に
「何の意味があってこれを伝えるのか」。この問いを捨てない限り、たとえ時代が変わっても、ラジオマンの精神はネットの世界でも通用すると信じています。
制作現場で働く者は、作品だけでなく「環境」にも責任を持つべきです。
炎上という名のキャンプファイヤーから一歩引いて、自分の言葉の温度を測ってみる。それが、これから個人でコンテンツを届けていく私たちに必要な「矜持」なのかもしれません。
ラジオという場所で培った「一対一の対話」の感覚を大切にしながら、これからも自分なりの発信を続けていきます。
皆さんも、誰かの炎に薪をくべる前に、少しだけその「現場の責任」と「意味」を考えてみませんか。

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