なぜか「発信=偉そう」に見えてしまう違和感
かつての私は、「情報発信をする人=リーダー的な存在でなければならない」と感じていました。
誰かに語りかけるという行為自体が、どこか上から目線のような気がして、
「自分なんかが発信してもいいのか?」と躊躇していたのです。
とくにSNSでは、フォロワーや影響力を持つことが前提のように語られる場面も多く、
その構造が、自信のない人間にとっては大きな壁になっていました。
「自分はまだ何者でもないのに、発信なんておこがましいのでは?」
そう思って、発信という行為を自ら遠ざけていたのです。
言葉を出せない自分に、どこか苦しさを感じていた
けれど、言葉にしないままでいることは、案外つらいものでした。
日々感じていること、考えていること、誰かに伝えたい想い。
それらをずっと自分の中に溜めていると、
出口のない感情がどんどん積もっていくような感覚になります。
「何か言いたいことはある。でも、自分に語る資格はない」
そんな自己否定のサイクルに陥ると、心も体もどこか重たくなるのです。
それでも、「発信=偉そう」「リーダー=完璧」という思い込みは拭えませんでした。
強い言葉で語れる人は、遠い存在に感じられたし、
「私にはそんな力はない」と決めつけて、
ただ日常のなかに埋もれていく感覚があったのです。
自然体であることが、共感を生むと気づいた
そんなとき、「リーダーとは、誰かを導く存在ではなく、
自然体のまま、自分の在り方を見せている人」という考え方に出会いました。
それは、正解を語ることでも、成功だけを見せることでもありません。
うまくいかなかった経験や、迷ったときの葛藤も含めて、
「いまここを歩いている」という実感を発信すること。
それこそが、人の心に届くのだと気づいたのです。
その瞬間、私の中で「発信=誰かのためになる立派なこと」ではなく、
「自分の今を記録する素直な行為」に変わりました。
そして、そんな言葉が誰かの励みになる可能性があるなら、
完璧じゃなくても発信する意味はある——そう思えるようになったのです。
自分の言葉が、次の誰かのきっかけになる
今の私は、自分を偉そうに見せようとも思っていませんし、
誰かを導こうという意識もありません。
ただ、自分が考えたことや、日々の気づきを自然な言葉で綴っているだけです。
それでも、誰かが「同じように感じていた」と共鳴したり、
「自分も一歩踏み出してみよう」と思えるきっかけになれたら、
それ以上にうれしいことはありません。
完璧じゃなくていい、特別じゃなくていい。
自然体のまま一歩ずつ、自分の道を歩んでいく。
その姿こそが、次の誰かに光を届けるのだと、今では信じています。
この記事を書いた人|ミライジュウ
メディア関連企業の業務部長。ラジオ演出30年の経験を経て、
「50代からでも“1円を生む力”は育てられる」と信じて発信中。
毎朝4時起きでランニング・筋トレ継続中。
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