昭和の文壇を鮮烈に駆け抜けた天才・三島由紀夫。彼がもしタイムスリップし、現代のメガベンチャーや大企業の「部長」になったら――。しかも、部下の多くがバリバリ働く優秀な女性たちという、いわゆる「女性活躍時代」のド真ん中に放り込まれたら、一体どうなるでしょうか。
この記事は、現代の組織で部下のマネジメントや、多様化する価値観との向き合い方に悩むビジネスパーソンに向けて書きました。特に、上からのコンプライアンスの圧力と、現場の人間関係の板挟みになっている中間管理職の方にとって、組織をスマートに生き抜くための新しい視点が見つかる内容となっています。
三島といえば、極端なまでの「男性的美学」を掲げ、エッセイ『女ぎらひの弁』では女性的な体質を「構成力の欠如」「低次の現実主義」などと容赦なく切り捨てたことで知られています。
しかし同時に、彼は大蔵省(現・財務省)の入省試験を優秀な成績でパスし、激務をこなした「超一流の実務家・官僚」でもありました。徹底的な合理主義者であり、ルールを把握してハックする天才だったのです。彼が現代のビジネスシーンでチームを率いたらどうなるか、そのマネジメント像を大真面目にシミュレーションしてみます。
意外にも「女性の強み」を120%活かす超・敏腕上司になる
三島は生前、女性を「生活や生存、血のつながりといった『厳然たる現実』を本能的に見据えている冷徹な現実主義者(リアリスト)」と評していました。文学の領域ではそれを遠ざけましたが、これが「ビジネス」という実務の戦場であれば話は180度変わります。
ビジネスにおいて、地に足のついた現実主義、徹底したリスク管理、指示の目的を正確に捉える細部へのこだわりは、致命的な失敗を防ぐための最強の武器だからです。
三島部長は、優秀な女性部下たちの能力を瞬時に見抜くでしょう。ここで重要なのは、彼が「言葉の魔術師」であり「ルールのハッカー」だという点です。当時なら「〜したまえ」という昭和の口調を使ったでしょうが、現代の三島部長は違います。そんな古い言葉遣いでは現代の優秀な女性部下たちに距離を置かれ、マネジメントに支障が出ることを誰よりも見抜いています。
そのため、彼は言葉遣いそのものを、現代の最先端のビジネストークに100%完全最適化させてアプローチします。
「今回の新規事業、財務のリスクヘッジと徹底的なデータドリブンなアプローチが生命線んだ。君の、どんな微細なノイズも見逃さない圧倒的な解像度の高さと、地に足のついた冷徹なリアリズムは、うちのチームにとって最高の強みになる。このプロジェクトのガバナンス、すべて君にオーナーシップを委ねたいと思っている。期待しているよ」
物腰は極めて柔らかく、レトリックは知的で洗練されている。しかし言っていることの芯はナイフのように鋭く合理的。そう言って、最も緻密さが求められる重要ポストに女性を次々と大抜擢するはずです。
ただし、論理の通らない企画書を持ってこようものなら、笑顔のまま冷徹にこう伝えます。
「熱意はすごく伝わってきたよ。ただ、このプロットだとロジックのアーキテクチャ(建築構造)が少し弱いかな。ビジネスの現場では、主観的な感情のレイヤーと、客観的な戦略のレイヤーは明確に切り分ける必要がある。全体を俯瞰した『マクロの設計図』が見えるように、もう一度構造化してみてくれる?」
完璧なロジックと数字を持っていけば、性別に関係なく最高の評価と権限を与えてくれる、極めてフェアな上司になるのです。
承認欲求をハックされる男性部下
三島部長のチームにおいて、真に恐ろしい運命をたどるのは、実は女性社員ではありません。最も巧妙にコントロールされるのは、「主体性がなく、言い訳ばかりする男性部下」です。
三島にとって「男性」とは、強固な意志と明確な大義(ビジョン)を持って生きるべき存在でした。そのため、指示待ち人間や、ロジックの甘い男性部下を見ると激しい嫌悪感を抱きます。
しかし、ここで感情的に詰め寄ったりすれば、ハラスメントで即座に自分が失脚することを、実務家である彼は誰よりも知っています。そこで現代の三島部長は、大声を出すことも冷酷に突き放すこともせず、現代マネジメントの王道である「1on1(個人面談)」の場をフルに活用します。
ハラスメントの網に1ミリも引っかからない、しかし相手の自尊心をじわじわと解剖していくような、極めて丁寧な問いかけを行うのです。
「〇〇くん、今回のプロジェクト、君の提出してくれたデータは完璧だよ。でもね、僕が君に本当に期待しているのは、こうした『失敗しないための作業』じゃないんだ。君はこの事業を通して、社会にどんなインパクトをもたらしたいの? 君自身の『意志(ロマン)』が、この提案書のどこにも見当たらないのがすごくもったいないな。君ならそれができると信じているから、次の面談までに、尖ったビジョンを僕にぶつけてみてくれないか」
一見すると、どこにでもある「部下の成長を促す素晴らしいフィードバック」に見えます。しかし、これを言っているのが「三島由紀夫」だという点に、この1on1の真の恐怖があります。
普通の上司が言う「君自身の意志(ロマン)」は、単なる「主体性」の要求です。しかし三島部長がこれを言うとき、その背後にある美意識の基準は「君は人生を懸けてこの仕事に殉じられるのか」という底知れないレベルに達しています。
男性部下は、自分の甘えをぐうの音も出ない完璧な正論で解剖され、逃げ道をすべて塞がれます。ハラスメントで訴える大義名分すら奪われたまま、「君は本当にその程度の男なのか?」という無言のプレッシャーを受け続けるのです。結果として、三島部長に認められたい一心で、自発的な過酷なハードワークへと引きずり込まれていくことになります。
なぜ「社長」ではなく「部長(中間管理職)」なのか?
ここで、「いっそ三島由紀夫なら社長として君臨させた方が面白いのでは?」と思うかもしれません。しかし、彼を「部長」という中間管理職に置くことにこそ、このシミュレーションの至高の妙味があります。
もし社長であれば、彼は自分の理想とする会社をトップダウンで作り上げ、ついてこれない人間を排除すれば済むでしょう。それは彼にとって簡単すぎます。
しかし「部長」というポジションは、上からの理不尽な経営目標やコンプライアンスの縛りと、下からの多様な部下たちのマネジメントという「生々しい現実の板挟み」に遭う場所です。
三島由紀夫の本質は、組織のルールや限界を誰よりも理解し、その不自由な枠組みの中でこそ、最も華麗に立ち回ってみせる男なのです。経営陣の前では完璧なフォロワーシップを発揮して信頼を勝ち取り、現場では女性たちの現実主義をリスペクトして業績を上げ、かつハラスメントの網をすり抜けて男たちをドライブする。
この、制限だらけの戦場で、スマートな現代のビジネストークという仮面をかぶりながら、裏で冷徹に組織をハックしていく姿こそが、リアルな面白さなのです。
来月から「自分以外全員女性」の部署を率いる私の気づき
実は、私自身も現在、ある企業の業務部長として組織を率いています。そして来月から新たに2名の女性メンバーが着任することになり、奇しくも「部内で男性は自分だけ」という、まさに今回のシミュレーションさながらの状況を迎えることになりました。
今の時代、性別に関係なく能力のある人材が活躍するのは当然ですし、私自身もその多様性を受け入れています。ただ、ふと「もしあの強烈な男性的美学を持った三島由紀夫が、現代の私のポジションに就いたら、さぞかし困惑するだろうな」という、ちょっとした好奇心から今回の考察を始めました。
しかし、彼のロジックを掘り下げていくうちに、私自身が一番驚くことになったのです。彼は困惑するどころか、現代のルールを完璧にハックし、女性のリアリズムを味方につけて、誰よりも信頼されるスマートな上司に変貌してしまうに違いない、という結論に至ったからです。
組織のルールや時代の風潮を「自分を縛る邪魔なもの」と捉えるのではなく、「その枠組みの中で、どうメンバーの強みを活かし、成果を最大化するか」というゲームに変える。現代にアップデートされた三島流の生存戦略は、来月から新しい体制を迎える私自身にとっても、非常に深い示唆を与えてくれました。
三島の「5つの批判」は、現代の文章論・発信論として蘇る
三島が『女ぎらひの弁』で批判した「5つの特質」を改めて並べてみます。
- 構成力の欠如
- 感受性の過剰
- 瑣末主義
- 無意味な具体性
- 低次の現実主義
これらは現代のビジネスシーン、あるいは私たちが個人で情報発信を行う際の「典型的な失敗パターン」そのものです。
「自分がどう感じたか(感受性の過剰)」だけで文章を書き、全体を貫くロジック(構成力)がない。本筋に関係のないディテール(瑣末主義・無意味な具体性)ばかりを書き込み、読者をどこへ連れていきたいのかという視座(ビジョン)がない。これらは、性別に関係なく、未熟な表現者が必ず陥る罠です。
三島由紀夫が現代の部長だったら、彼は間違いなくトップの業績を叩き出すでしょう。しかし、金曜日の夜の給湯室では、女性部下たちの間でこんな噂話が囁かれているに違いありません。
「三島部長って、仕事は完璧だし、絶対に差別もしないし、すごく洗練されてるんだけど……なんか時々、目つきが『この会社と刺し違えよう』としてるみたいで、ちょっと怖いよね」
感情に流されず、大局的な戦略を持ち、目の前のタスクの目的を理解する。現代の言葉遣いにアップデートされた三島由紀夫の視点は、ジェンダーの壁を超えた現代のビジネスサバイバルにおいて、私たちが生き残るための、最も鋭利な処方箋なのかもしれません。

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